多田圭佑

Beautiful Dream

2020年11月27日(金) - 2020年12月26日(土)

trace / dimension #4, 2020, アクリル絵の具 油絵の具 綿布 木製パネル, 162×130.5×10cm
trace / dimension #6, 2020, アクリル絵の具 油絵の具 綿布 木製パネル, 117×91×5cm
多田圭佑 作品制作過程6(2020年)
多田圭佑 作品制作過程5(2020年)
多田圭佑 作品制作過程4(2020年)
多田圭佑 作品制作過程3(2020年)
多田圭佑 作品制作過程2(2020年)
多田圭佑 作品制作過程1(2020年)

MAHO KUBOTA GALLERYでは11月27日より多田圭佑の新作個展「Beautiful Dream」を開催いたします。

人が毎日見る夢の正体は脳の中にランダムに浮かび上がる映像やイメージを後付けのストーリーでつなげているものだという説がある。真偽のほどは解明されていないが、人が日中膨大な数の視覚情報を自動的に処理し、それらのフラグメンツを記憶し、夜眠っている間に再生するのだと考えると、そのメカニズムはアナログというよりデジタル的な質感を多分にもっているように感じられる。夢とは恐るべき虚構世界であり、そこではどんなことも起こりうる。壁面が割れて別の世界が広がったり、空間ごと回転したり、体が宙を浮いたり、次の瞬間には別の空間に瞬間移動したり。多田圭佑の新作シリーズ「trace/dimension」の大作の前に立つと夢の中で起こりうるような=すなわちデジタルの虚構世界のバグのような、質量を持たない空間との関係性の中で唐突に自らの身体の平衡を失い無防備なまま未知の世界に放り出されたような、そんな感覚を覚えてしまう。

多田が仕掛けたこの巧妙なギミックの狙いは本人の言葉からも明らかだ。
「今回展示するtrace / dimension という作品は、床と壁、つまり水平と垂直をモチーフにしている。それらが一つの画面の中で共存し、展示されることで、重力やテクスチャがバグったイメージを作りだし、空間そのものを変容させたいという思いから、壁一面を覆い尽くす、大きな作品を制作した。」

その前に立つと、もはやこれは絵画なのだろうか、という疑問さえ湧いてくる。目に飛び込んでくるイメージのフラグメンツはすべて過去に見慣れた何かを参照していることは間違いない。イメージ単体では特に新しいものは存在しないのだ、、、しかし、それらが表面上「過去に見慣れた何か」に似ているとしても、その素性は鑑賞者の知覚を軽く裏切るだろう。木の板に見えるそれ、錆びた鎖のように見えるそれ、タイルのように見えるそれ。それらはすべて多田のもとに計画された、絵具による造形であり、均一にフィクションの皮膜に覆われている。そしてたとえ言葉でその事実を説明したとしても鑑賞者には説明されたトリックが真実なのか、あるいは嘘を告げられているのか判断することは難しいだろう。しかし面白いことに、その「何かの物体に見える絵画」が発する無言のメッセージは無意識のうちに鑑賞者の認知のシステムに微細な波を与え続けているのかもしれない。それは言葉で表現することが難しい違和感として感じとられ、その違和感こそがその「絵画」の強度を確かなものにしているのではないだろうか。

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本展に寄せた美術評論家 gnck氏のテキスト

〈仮構された物質の前で〉     

多田は、デジタル画像の経験、特にゲームの3D空間において、テクスチャとポリゴンが決して不可分で「無い」ことの奇妙さに関心をもっているという。デジタルに仮構された3D空間では、物理的なオブジェクトかに見えるそれらには、中身や重さが与えられていない。それは、プレイヤーやそれを捉えるカメラが開発者の想定外の挙動をすることでしばしば「ポリゴンの裏側に抜けてしまう」という事象が発生することによって、あからさまになる。そこには、ひとまずは現実と同じように見えていたはずのオブジェクトが、厚み0のペラペラの板にそれらしい画像が貼り付けてあるだけである。デジタル画像の経験は、テクスチャとポリゴンの可分性、つまり「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚を与える。その感覚は、本来床面であるはずの木の板が直立し、壁となっている多田の作品を鑑賞する際の、平衡感覚が狂う、かすかな浮遊感と通底する。

絵画には、「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚がある。鉛筆や絵の具によって、まるでそこに本物があるかのように描きながら、しかしそれが紙やキャンバスの上の炭や絵の具でしかないことも同時に示す。
多田の作品の、木の板やタイルが貼り付けられた壁面はしかし、そのような絵画的なイリュージョン――「本来そうでないものを、何某かに見せる」――ということは発生していないように見えるだろう。それらは、木の板やタイルを「描いた」のではなく、まず物理的に木の板やタイルなのだと。ところが恐るべきことに、木の板も、タイルも、ビスや鎖までも、これらすべては絵の具から出来上がっている。
一瞬文意が取れないだろうか。これは比喩ではなく、文字通り、物理的に絵の具から作り出されているということだ(そのような目で見れば、実は木の板の木目が繰り返されているところも発見できるだろう。つまり、これらは型取りされて、複製されたものであることを示している)。これは、あまりにも、なんというか、笑ってしまう。そこに膨大に消費された絵の具の量、その手間を考えれば、それがいかに異常な所業なのか分かるだろう。

《Heaven’s Door》では、内部が絵の具であることを示すように、扉の傷からは絵の具の色が覗く。そこでは斧で叩き切られることによって図らずも、絵の具の物理的な特性が「木目がないことによる壊れ方の違い」として現れている。絵の具は飽くまでも物質であるのだが、その色味が光があふれるかのような蛍光色であることによって、物理的な存在であることから少しだけ浮遊しているように見える。
多田は、「絵画の存在証明として、絵の具であること」について信仰をもっているわけではないようだ。ただ眼前に提示される作品が、「絵の具によって作られる、見せかけの何某か」であることには違いない。これを何と「見れば」よいのか。それこそが鑑賞者に問われている。