次回の展示
反復と変容の総和
鮫島ゆい
2025年5月15日(木) - 6月14日(土)
MAHO KUBOTA GALLERYでは、5月15日より、京都在住のアーティスト・鮫島ゆいによる東京での初の本格的な個展を開催いたします。
本展では大小14点ほどの新作ペインティングを展示いたします。
鮫島のペインティングは、多くの場合、シェイプド・キャンバス(変形キャンバス)を支持体として制作されます。彼女の作品においては、絵画に描かれたモチーフのそれぞれを個別に認識されることを、あえて拒むかのような姿勢が感じられます。画面に現れるのは、儀式的な道具や何かを表象するオブジェのようなもの、また、かつてそれらに人が関わっていた気配などですが、それらは具象絵画における「対象」としての役割を持たず、むしろ抽象的な言語のように、作品同士をゆるやかに繋いでいくようにも見えます。鮫島が選ぶ色彩にも独自の規範があり、黒を基軸としながら、調和と不調和の間を行き来する中間色の扱いには特有の法則性が感じられます。それは、鮫島が構築する厳かで静謐な王国のルールに従っているかのようです。
自身の制作姿勢について、鮫島は次のように述べています。 「人は世界のすべてを直接見ることはできず、五感を通じて得た断片的な情報をもとに、それぞれの主観的な世界を構築している。かつてキュビズムの作家たちが対象を分解し、絵画を再構築することで新たな観点を提示したが、知覚の様式や感覚の枠組みそのものが流動化している現代において、視覚芸術である絵画表現を通じて、断片の外側にある「見えない存在」をいかにして示すことができるのか。 」
実際、彼女の絵画を前にすると、それぞれが単独で存在しているのではなく、全体でひとつの大きな王国、あるいは壮大な物語を形づくっているかのように感じられます。それは、飛行機から地表を俯瞰する風景や、海に点在する群島のように、可視の部分を遥かに超えた、隠れた構造や背景の存在の広がりとエネルギーを想起させます。
鮫島の絵画はもしかしたら「わかることを手放す」ことから始まっているのかもしれません。断片を並べ、それらを部分的に理解したとしても、その奥に広がる世界全体を把握することは本質的に不可能です。その不可能性を受け入れ、理解という枠を超えた先に立ち現れる風景があることを、彼女の作品は示唆しています。
理想郷を信じて進んできた価値観が崩れ、人々が各地で争う現在の世界において、鮫島の絵画は、私たちに「見えないものを想像する力」を呼び起こします。しかし彼女が描こうとしているのは、完全なる世界ではありません。それはむしろ、ひとりひとりの知覚のなかに浮かび上がる、正解のない、無数の世界線の姿なのかもしれません。
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反復と変容の総和
[展示会ステートメント]
私たちは世界のすべてを直接捉えることはできず、五感を通じた断片的な情報をもとに、それぞれの主観的な世界を構築している。ゆえに知覚とは、目に見えるものの単なる集積ではなく、断片を結びつけることによって現象が絶えず生成される働きそのものといえるだろう。
本展では、絵画という固定された時間と空間の枠組みの中で、「反復」とその中で生じる「変容」に焦点を当てる。反復とは、対象を繰り返し観測する過程でありながら、単なる同一性の再生ではなく、わずかなズレや変化によって新たな視座が開かれていくものである。その更新は、こうした微細な差異が積み重なることで生じる。
出品作は、知覚を分解し再構築するキュビズムの方法論と、シュルレアリスムが偶然性を通じて超越的な瞬間を捉えるアプローチを軸に、現象学的な観測を通じて「見えない存在」に問いを投げかける。そこに描かれるものは、身体を通じて捉えられた現前的な形象と、すでに過去のものとなりながらも断片として現在に残る存在が交錯する場であり、鑑賞者の解釈によって補完されることで、その「総和」が立ち現れる。
この作用は、作品の成り立ちにも深く関わっている。言葉を介さない身体的な観測を出発点とし、身体が発する、意識を超えた言語を誠実に翻訳することで、言葉の枠組みに収まりきらない未知のものへと開かれていく。その過程の中で、作品は単なる視覚的な対象を超え、時間的にも空間的にも拡張しうる場所となり、鑑賞者との関係を通じて絶えず変容し続ける。
知覚とはつねに不完全であり、私たちは仮説的に世界を構築しながらそれを更新している。しかし、その不完全さこそが新たな想像を促し、「見えない存在」を示唆する契機となる。知覚の様式や感覚の枠組みそのものが流動化している現代において、本展が私たちの「見る」行為のあり方を問い直し、存在の輪郭を探る界面として機能することを願う。
[アーティストステートメント]
人は世界のすべてを直接見ることはできず、五感を通じて得た断片的な情報をもとに、それぞれの世界を構築している。この認識の限界は、哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724–1804)が述べたように、私たちは「物自体」をそのまま知覚することはできず、感覚を通じた現象として世界を捉えているにすぎない。
かつてキュビズムの作家たちが対象を分解し、絵画を再構築することで新たな観点を提示したが、知覚の様式や感覚の枠組みそのものが流動化している現代において、視覚芸術である絵画表現を通じて、断片の外側にある「見えない存在」をいかにして示すことができるのか。この問いのもと、私は制作を行っている。
私の絵画では、画面の外側と内側を拡張するために、以下の過程を経ている。まず、外側に拡がる仕組みを生み出すべく、キャンバスの枠を超えるイメージを描き、欠けや余白を意図的に設けている。また、時には切り取られたような形状の支持体を用いることで、鑑賞者に画面の外側を想像させる。
次に、内側に描くイメージとしては、主に二つのモチーフを扱っている。一つは、五感を通じて立ち現れた形象であり、もう一つは、過去に存在していたとされるが現在はその全貌を把握することができないものである。
スケッチやエスキースを描いてから本画に移るのではなく、私はまず身近な事物を用いて立体物を制作する。それを、絵画を生成するための源泉として位置づけ、身体的な知覚からイメージを膨らませていく。さらに、自身の五感では捉えられない歴史上の対象や、遺産・遺跡・伝承といった、現在では断片的にしか把握できない要素を、時代を超えて散逸した情報として取り入れている。この身体を通じた実践によって、直接的な観測と過去の断片が交錯し、多層的なイメージが形成されていく。
これらの複合的な要素が組み合わさることで、絵画は固定された時間と空間の枠を超え、外側との相互作用によって常に変容する「場所」を生成する。そこでは、対象への繰り返しの観測を通じて新たな知覚が立ち上がる。この反復は、単なる同一性の再生ではなく、微細なズレや変化によって新たな視座が開かれ、差異の積み重ねによって更新されていく。こうして作品は内側で完結せず、鑑賞者の関与を前提とした状態となる。
このように、内側と外側の双方向に開かれた絵画を前にしたとき、鑑賞者は各々の経験に基づいて断片を統合し、描かれたイメージの延長を想像する。そして、主観的に補完された世界を脳内に構築することで、私の作品は、他者の知覚を伴ってはじめて完成する「見えない存在を示す装置」としての役割を果たすと考えている。
私にとって作品を制作することは、主体としての私を通して立ち現れた現象を、客体としての私が確認する行為である。それは、無意識のうちに断片的な感覚情報を手がかりに仮説を立て、それを修正しながらイメージを形成していくという循環を内包しており、私はこの動態を意識的に捉えようとしている。こうした現象学に基づく視点を通じて、人は世界をどのように知覚し、またその射程を超えたものにいかに接近しうるのかを探究していきたい。
人工知能が統計的推定に基づいて「知覚らしきもの」を生成しつつある今日の状況のなかで、絵画という営為は、身体を媒介とする人の特異性をあらためて浮かび上がらせる契機となるのではないだろうか。私の作品が、「見えない存在」との接触を媒介する界面として機能し、知覚と存在の境界が交錯する新たな場となることを目指している。
鮫島ゆい