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ガレージセール
長島有里枝
2025年3月21日(金) - 4月26日(土)
MAHO KUBOTA GALLERYでは長島有里枝による個展「ガレージセール」を開催いたします。本展は、当ギャラリーでは2020年以来3回目の個展となります。
長島の近年の活動は作品制作にとどまらず多岐にわたります。2021年に金沢21世紀美術館で開催された「ぎこちない会話への対応策—第三波フェミニズムの視点で」では、ゲストキュレーターとしてアーティストたちと対話を重ねながら展覧会を作り上げました。また、2023年の個展「長島有里枝 ケアの学校」(港まちポットラックビル、名古屋)では、会期中に会場を自身のスタジオとして公開し、アーティストや来場者とともにパフォーマンスやイベントを開催するなどその表現の幅を大きく広げています。
こうした近年の試みは、一見すると1993年のデビュー作である家族のヌード写真や、代表作の一つであるセルフポートレイトシリーズとは異なる表現のように感じられるかもしれません。しかし、長島の眼差しは一貫して身の回りの大切なものに向けられています。それは、自分自身、家族、ペット、大切な友人や仕事仲間、日常の時間、そして親しい他者とのコミュニケーションに関わるものです。長島は、その時々の自身や社会の状況に合わせながら柔軟に作品を展開してきました。
本展「ガレージセール」では、愛猫・愛犬を捉えた新作のモノクロプリントや彫刻をはじめ、日常生活や家事の場面を切り取った「家庭について/about home」のシリーズやアメリカの各地でカメラにおさめた植物のシリーズ「wild flowers」 など、これまでに発表してきた作品に長島の手焼きプリントのコラージュや鉛筆のドローイングを加えて再構成し、新たな作品として展示いたします。
長島は本展にあたって「手を動かして制作をしたかった」と語っています。新作のモノクロプリントは長島自身が暗室に入ってプリントしました。また、これまで「長島有里枝 ケアの学校」や「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」(2024年 国立西洋美術館)で制作プロセスを公開してきた愛犬の木彫作品が、本展ではさらに進化した形で展示されます。
セルフポートレイト、静物、動物、風景—これらは長島にとってかけがえのないテーマであると同時に、18世紀の女性アーティストたちが社会的な制約の中で選ばざるを得なかった数少ないモチーフでもありました。本展を通じて、長島がこれらのテーマにどのように向き合い、新たな表現へと昇華させているのかをご覧いただければ幸いです。
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中学生のとき、週末になると埼玉の田舎街から1人で原宿や渋谷に出かけた。気の合う人はおらず、クラスで浮かないようにチェッカーズや光GENJIを聴いた。話を合わせていたつもりが、だんだん本当に好きになってしまうからアイドルってすごい。
竹下通りの入り口には誰が撮ったかわからないアイドルの写真が、通りに面した高い位置にずらりと並んでいた。マルベル堂で売っているようなブロマイドとは違い、レンズの描写からそれらがかなりの長玉で撮られているとわかった。被写体は、自分が撮られていることに気づいていなさそうだった。ステージ衣装をつけ、マイクに向かって大きな口を開けたり、誰かに手を振ったり、笑ったりしている。正式な撮影許可を取っていないから、そういう写真は買っただけでも罰せられる。そんな噂が、子供たちのあいだでまことしやかに流れていた。
好きな人が写っていることと良い写真であることは違うし、写っているのが美しい人や風景であることと、美しい写真であることもぜんぜん関係ない。それぞれに愛好者がいて、どっちも大切にされている。名もなき誰かを撮った写真の芸術性と、ポップスターを撮った写真の芸術性は異なる。それぞれが異なる価値観のもとで存在意義を与えられている。コマーシャルであることとアートであること。お金になるものとそうでないもの。どちらの方が崇高なのかとか、ずっと気にするよう教えられてきた。そういう二項対立的な言説にうんざりしてきて、いまは水瓶座の時代に相応しいオルタナティブな価値を探してる。
最近読み始めた『女・アート・イデオロギー』、なぜもっと早く読まなかったんだろう。それはさておいても学びが多い本だ。18世紀のヨーロッパでは、「女性に相応しい」主題と画材と技法が決まっていて、それゆえ女性の絵画には男性のそれより低い価値しか与えられなかったと書いてある。腑には落ちるものの驚きはない。そういう話に慣れてしまったから。それでも売れっ子の画家はいて、たくさんの仕事を残した。そのうち何人かは、「女らしくない」と男性論客に嫌われる絵を描いていた。
売れない作品はけっこうな邪魔者だ。わたしの場合、企画展のために制作した作品がどこかに収蔵されることはほぼない。帰ってきた作品に、おかえり〜と努めて明るく声をかけてみる。サステイナブルをコンセプトにした作品に行くあてがなく、結局は粗大ゴミになるなら作らないほうが地球に優しい。そんなことを考えてしまって腐っていると、なぜかあの竹下通りの写真が頭に浮かんできた。
自分は一体なんのために生まれたのか。そんなことを作品が自問していたらどうしよう。こにゅみやオハナがそう思うことのないよう、日々、心を砕いて世話をしている。責任は感じるが、罪悪感から可愛がっているわけじゃない。作品だって同じだろう。新しいプリントを作ろうと思えば作れる。でもいまはこの子たちに、じっくりと時間をかけて向き合ってあげたい。
長島有里枝