次回の展示

ゴン!と演じる「M」

村井祐希

2025年2月7日(金) - 3月8日(土)

MAHO KUBOTA GALLERYでは、2025年2月7日より、村井祐希の新作個展「ゴン!と演じる『M』」を開催いたします。

これまで、規格外の大きなキャンバスや独自に開発した重量感のあるメディウムを駆使し、絵画の枠を超えた作品を発表してきた村井。本展では、物質的な探求から一歩踏み出し、「アーティストのキャラクターの受容」という現象を絵画表現の一部として捉える新たな試みに挑みます。村井によれば、アーティストは「振る舞い」「言動」「風貌」などによってパブリックイメージ=キャラクターを形成し、鑑賞者はそのキャラクター性を通じて作品を理解します。しかし、このプロセスには問題が潜んでいます。鑑賞者の視点がアーティストのキャラクターと作品単体に分断されることで、本来見出されるべきものが見失われてしまう可能性があるのです。

こうした分断を超え、普遍的で多義的な作品を生み出すためにはどうすればよいのか。個人の物語をより大きな物語に繋げてゆくためにはどうしたらよいのか。村井は本展において、その一つの答えを提示します。自らが演じる「キャラクター」そのものを絵画のメディウムとして扱い、それをロココ絵画の構造や、漫画、絵本の形式などと混ぜ合わせながら、キャラクターを再び、絵画で起こる出来事と共に立ち上げていく。このプロセスを通じ、より自由で飛躍した表現が交差する場を創出することを目指します。

展覧会では、4点の平面作品と2点の立体作品に加え、村井が作詞・作曲を手がけた楽曲も発表される予定です。

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ゴン!と演じる「M」
アーティストステートメント

「絵具がたくさん盛ってあってめちゃくちゃ大きいので、村井さんの絵ってすぐに分かりました~!」

アーティストの振る舞い、言動、風貌からなるパブリックイメージや作風が社会で共有され同一性を獲得することで、アーティストのキャラクターが構築される。人々は、アーティストのキャラクターの受容の一環として、そのアーティストが制作した作品を消費することが可能だ。その場合、作品はアーティストのキャラクターを演出するための小道具ともなり得る。

近代において、マルセル・デュシャンがアートの価値付けに「命名」を重視し、アーティストの名前がいかに残るかという評価軸の中に、作品の価値を埋没させる構図が明確になったと言える。これ以降この構図に自明な実践は今や珍しくない。今日のアーティストは、自身のキャラクターと作品をセットで売り出し、鑑賞者もそれを当たり前に受容する。

2000年以降ジェフ・クーンズや村上隆などは、アーティストのキャラクターと作品をブランド的アイコンとして一つに結合させ、あらゆる階層の文化やメディア、コミュニティを横断した。その要塞ばりに強力な同一性は、作品の個別的差異を隠し、作品に対する個人的な見解は受け付けないと思わせるくらいに頑固に一義的だ。

私自身もこれまで、少年漫画の主人公を彷彿とさせる元気なキャラクターを演出し、その舞台装置かつ目印として巨大で派手な絵画群を発表してきた。

日本で活動する私が痛切に実感していることがある。
それは、アーティストのキャラクターがしっかりと構築された時、鑑賞者の視点がアーティストのキャラクター、又は作品単体に焦点を当てたもののいずれかに偏り、鑑賞者を二分化させてしまうことだ。
前者はアーティストのキャラクターを起点にして、物語の共有を拡大し、後者は単体の作品や展覧会を起点とした批評や言説化を行う。両者の乖離は、双方の視点を結合した実践とそれを言説化し発展させる場を奪う。また前者は、影響力が拡大しやすいことなどから、鑑賞者が作品と関わる際の指標を知らぬまに包摂してしまったりする。キャラクターを演出するアーティストに至っては、実践がキャラクターの演出に収束していき、個別の作品の制作テーマが断片化して停滞する。
同時代にアートと関わる私たちは、作品と関わることとキャラクターの受容のちぐはぐな関係が巻き起こす事態が、自らにどう影響しているのかを整理しないと、自分がどういう立ち位置から作品と対峙しているのか、主体性を見失ってしまうことが往々にしてある。

椹木野衣はそういった日本の状況を示唆するように、山下清の作品鑑賞、分析を行う際、まずアーティストのキャラクターとそこに混同された作品をそれぞれ分離して、鑑賞における自身の立ち位置を整えることから始めた。★1

制作は、誰にも規定されない作者の問題を煮詰めたテーマを、しかし作者すら予想し得ない形で跳ね返って作品を生む。鑑賞には、作品の中に独自の発見をして、その因果関係を主観的に推理していく自由がある。これらの起点となる作品の周りには、様々なテーマや人々や事物の関わりが、絡まり合いながら、時間や場所を横断して渦巻き、可変的に生きている。作品は、そのような到底人にコントロールできない魅惑的な力を纏い続けるものだと、私は考える。ところがこのような誰しもが持ちうる作品との多義的な関わりの可能性が、アーティストのキャラクターの同一性に囲いこまれて、回収されたり、すでに置き換わっていたり、また行き場を無くして忘れさられることもあるだろう。

このような事態を避け、作品の多義的な在り方を感じ取るためには、アーティストのキャラクターの受容に敵対するのではなく、同時代に作品と関わる固有の条件として考える必要があるのではないだろうか。

そこで今展覧会において、私たちが一人一人固有に感じ得る作品の(観念的な、物理的な)存在の感触と、それを埋没させ得るアーティストのキャラクターの受容の合流地点を探してみたい。
そのために、「キャラクターの受容」という出来事を絵画のメディウムの1つとして扱う。

キャラクターの受容は、フィクションの物語の登場人物にキャラクターを重ねる傾向がある。この場合、キャラクターはフィクションの世界に生きることを想像させつつ、絵画の中で鑑賞者の鑑賞の物語にも同時に生きる。ここにこそ、キャラクターの受容の多義的な可能性がある。この可能性を、漫画や絵本の形式を絵画に投入しながら、18世紀のフランスで流行ったロココの絵画のいくつかの引用を交えて実践的に問う。

また、私は作品で扱う立体的な絵具を「オムライス絵具」と名付け、自身のキャラクターを象徴する存在として売り出したが、この例に限らず、アーティストのキャラクターを構築する材料である作風や絵柄を背負う作品は、それ自身がそのアーティストのレッテル貼り的キャラクターとなる場合がある。作品はキャラクターとして受容される中、様々な人々や事物と関わり合う可変的な多義性を自らに維持することはどのように可能なのだろうか。

これらの実践を通して、アーティストのキャラクターの受容の静脈として走る「共有」の流れを、人々を匿名化させ集合させる場ではなく、私たちの差異を反映可能な場に向かわせる。

アーティストのキャラクターの周辺に停滞する作品の在り方、制作実践、それらを捉える目や語る口、手が、

おもいっきり豊かに交通する経路を開いてしまおう。

村井祐希

★1
山下清作品集 河出書房新社