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ゆらいむうき

村井祐希

2020年7月1日(水) - 8月1日(土)

MAHO KUBOTA GALLERY では7月1日より村井祐希の個展「ゆらいむうき」を開催いたします。

芸術に対する妥協なきノンストップ思考と恐るべき表現の突破力を武器に、全身芸術家として自らの絵画を探求し続ける村井祐希。本展では村井の鋼の実践のもとに安易な絵画論を超えた圧倒的な熱量の作品群が出現します。絵画における「身体性」についてのステレオタイプな言説を超えた大作の「動く絵画」、そして「運動体をともなった絵画」など、規格外の作品によるインスタレーションが鑑賞者の想像の主導権に揺らぎをもたらし絵画との深度のある遭遇へと導きます。

「ゆらいむうき」アーティストステートメント

ゆらいむうきは絵具と人間の擬似融合の実践であり、異種混合の共生を瞬間的に体感する場である。

「身体性」の発生地点が対象を観察してイメージを膨らませるところにあるとするならば、絵画はそれを具現化するための擬態道具の役割を背負ってきた。

絵具はこの荷を下ろすべく、ある主体的イメージが成立する以前の起源に引力を起こす運動体となる。

夜の山の暗闇に身を投じると、網膜は曖昧になるが、身体は鋭く状況を感知し始める。動物か何かが草を押しつぶして移動する鈍い音がきこえてもその様子をはっきり確認することは出来ず、想像の主導権を握れなくなる。このブラックホールの中身に続く誘導経路を描き、あなたと絵具を案内する。

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芸術に対する妥協なきノンストップ思考と恐るべき表現の突破力を武器に、全身芸術家として自らの絵画を探求し続ける村井祐希。村井の鋼の実践のもとに安易な絵画論を超えた圧倒的な熱量の作品群が出現します。上記の展覧会ステートメントで彼は次のように語ります。

「夜の山の暗闇に身を投じると、網膜は曖昧になるが、身体は鋭く状況を感知し始める。動物か何かが草を押しつぶして移動する鈍い音がきこえてもその様子をはっきり確認することは出来ず、想像の主導権を握れなくなる。このブラックホールの中身に続く誘導経路を描き、あなたと絵具を案内する。」

また、次のようにも言及しています。

「美術でよくいう身体性って言葉にスーパー違和感を持ち始める。結局それはメディウムが動いた形跡をみてそれぞれの鑑賞者が雑に残像を想像するもの。そしたらどんなものにも身体性はあるし動きを勝手に想像できる。作品がどう動いているか、作品をみた時どう動くか、そしてみている私はどう動くか。」

絵画において身体性を語るとき、例えば白髪一雄が身体のムーブメントをテコに絵画を制作したり、あるいはジャクソン・ポロックのドリッピングの手法のように、身体とメディウムが干渉した痕跡を見てそれを絵画の身体性、と語る言説をよく見かけます。しかしメディウムとアーティストの体のムーブメントを「絵画の身体性」と説明するとすれば、身体性をともなわない絵画など、コンピュータでプログラミングして機械に描かせたり、あるいはそもそも最初からAIが絵画を描くようなケースでない限り存在しないのではないでしょうか。

今サイエンスはAI、そして拡張現実がもたらす新しいステージに現実を見ています。一方で持続可能な世界を私たちは夢みています。私たちの近い未来において芸術の、そして絵画の特異性として残るものは何なのでしょうか。

芸術における「未来」という言葉からは20世紀初頭のイタリアの「未来派」作品群が想起されます。未来派は絵画(そして彫刻)の上に「時間と空間」の概念を持ちこみ、フィルムのコマ撮りのような手法でムーブメントを表現しました。人間の身体のムーブメントもそこに含まれますが、一方で発展する機械文明の未来を明るく捉えていたに違いありません。しかし2020 年の現在未来派の作品を見ると、表現の美しさを見いだしつつもその後これらのムーブメントがアナーキズムや軍国主義と結びついていった闇の物語を想像しないわけにはいきません。発展を絶対善とし、スピードを急いだ結果なにか重要なものが欠落してしまったように感じます。

身体性とは体の動きだけを指すものでないことは今さら述べるほどのことではありません。私たちの体のすべての反応、動きはすべて脳につかさどられるものです。脳は一方で体を動かしながら一方で体の奥底の見えない運動、すなわち思索をノンストップで行なっているのです。私たちは目覚めているとき、思考を止めることはほぼ難しい。眠っている時すら脳は動きつづけているのです。

村井が言う「夜の山の暗闇に投じられた自己」とは、まさにこのノンストップの思考、思索、そして何かを考えてしまう状態を浮き彫りにします。そして暗闇によって視覚を奪われたことで自己、すなわち「私」は網膜で捉えることのできない「世界のすべて」を意識することになります。そして、自らの呼吸に注意を向けていくうちに「世界」は「私」と対峙するものでなく「世界」が「私」の一部に、そして「私」も「世界」の一部になっていることに気がつくのです。そのうちその境界はどんどん曖昧になっていきます。そうした視座に立った時の「絵画表現」とはいったいどのようなものになるのでしょうか。私たちの想定内の「壁にかかった美しい絵」の形をとっていないことは間違いありません。