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forge

多田圭佑

2017年3月10日(金) - 4月28日(金)

MAHO KUBOTA GALLERY では3月10日より、若手ペインター・多田圭佑の新作個展「forge」を開催いたします。「捏造」されたスーパーリアルな視覚情報の上にアンフォルメルやアクションペインティング、あるいはグラフィティなどにつながる身体感覚を伴う絵画表現が展開される「trace/wood」のシリーズ。あるいは、古典的な手法で一旦完成させた静物画を凍結し、解凍ののちに再生させる「残欠の絵画」シリーズの手法など、多田圭佑の絵画では異なる幾つかの表現のレイヤーを重ね、対立させ、干渉させることによって、ノイズや時間の歪みを呼び起こす試みがみられます。本展では二つの絵画シリーズを中心に約10点の新作ペインティングを展示いたします。

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絵具の飛び散ったアーティストのスタジオの床板の一部を切り取り、無造作に壁に掛けただけのように見える多田圭佑の「trace/wood」シリーズのペインティング。若いアーティストのやや凡庸な思いつきかと思い、近づいて眺めているうちに、鑑賞者はそれが絵画的な成立を前提に緻密に計画されたペインティングだということに気がつきます。

しかしここで目の前に展示された「床板」が木材ではなく、<実はアクリル絵具とメディウムという純粋な絵画素材のみで出来上がっているペインティングだという事実>が伝えられたとしても、鑑賞者の多くは「本当に?」と問い返さずにはいられないことでしょう。視覚的情報は人の脳を介して経験によって補填され、記号に変換される。だから私たちの脳にとっては「木の床」を表象したペインティングですら、「木」そのものと捉えてしまうほうが容易いのです。

ひとつの例を見てみましょう。「trace/wood」シリーズのスタートから2年を経て今回の展覧会で発表される同シリーズの新作の一作品では、第一の絵画である絵具で表現された木の板の上に、鉱物なのか、陶器であるのか見分けのつかない物体が重量感をともない、どっしりと付着している。物体の表面は銀メッキ処理がされていますが、その鈍い光はことさらその成分を明らかにしていません。第一の絵画すなわち支持体でもある木の表面と物体の質感を縫うようにつないでいるのが色彩であり、それは筆でドリッピングされたり、スプレーで吹き付けられたりした絵具そのものの純粋な色彩です。捏造された記号の表象に得体のしれないオブジェクトが接合し、その間をマテリアルとしての色彩がつなぐ。虚構の木の質感と物体のボリュームが、お互いに「得体のしれないマテリアル」としてのアンリアルな存在を主張する一方、その間をつなぐ色彩のフローは実に優雅で、だからこの絵をひとつの絵画として鑑賞する際、異質なボリュームとムーヴメントが重なり合って表出する絵は、何が真実でなにが虚構かという問いから離れて、純粋に美しい。

ここで作品はひとつの問いを投げかけます。では単純に本物の「床板」そのまま切り取って同じように絵具を重ねていくだけではダメだったのかと。あるいは「床板」に同じように絵の具を重ねていくプロセスでも、我々が今見ているこのペインティングと同じ作品を作り得たのだろうかと。

答えは否でしょう。絵画は視覚情報を視覚的に伝えるために生まれた手段です。ここで視覚情報として我々の前に投げ出された「木」は単なる情報であり、自然の中からランダムに抽出されたリアルなオブジェクトではありません。多田が試みるのは「木という記号」を捏造する仕掛けです。木という視覚情報を絵画として成立させた後に、多田はその上に別の絵画のレイヤーを重ねていくのですが、その過程で「描かれる画面が木の床板ではなく、自ら捏造した絵画である」ということを誰より知るのは多田本人です。当然、最初に創り出された絵画に重ねられる新しい絵画や美術的表現は、複数の表現のレイヤーという前提の上に創作されているはずです。それゆえに最終的に作品はひとつの統合された美的方向性を獲得し、収束していくのです。

多田が昨年から取り組むもうひとつの絵画のシリーズが「残欠の絵画」です。このシリーズの作品は、古典的な絵画の手法により硬質な静物画を制作したのち、表面にひび割れや剥がれ等の「エイジング」を施し、作品が遠い昔に描かれたようにみせる「捏造」のプロセスの中で制作されています。ここでは創造と凍結、その解体と再生が行なわれており、この作品でも多田は「絵画とは何か」という原初的な問いを自らに投げかけているように感じられます。絵画とは支持体に塗られた絵具の層が見せるものであり、見る行為によって、それを認識する眼差しがあることによって絵画として成り立つものです。 情報を別の情報に置き換える手段である一方、絵画は観念的であり、情緒的でもあり、同時に物質であるという宿命をもっています。絵画が表象するモチーフがある一方で、絵画の物質性は時に作者の思惑を超えた部分で絵画を変容させ、モチーフ自体の本来の意味を無力化させてしまうことがあります。古代エジプトの壁画を見るとき私たちは、古代の人々の姿を見ていると同時に、そこに痕跡として残っている悠久の時間を見ています。時間の重なりは当初予定されていなかった美を生み出し、あらかじめ予定されていなかった美を含めて我々は作品を鑑賞している。「絵画の完成」とはなにか?という重大な問題もここで想起されます。

多くの若手ペインターの例にもれず、1986年生まれの多田もまた、「絵画が終わった」のちに生まれ、筆を握ることを選んだアーティストの一人です。あらゆる探求や実験が尽くされ、もうこれ以上試みるべき新しい実践はないように見える現代でさえ、明日の絵画は求められています。創作し、解体し、再構築し、絵画の外にある表現を加える、絵画の形式から逃走する、デジタル世界からアプローチする、答えの出し方はそれぞれでしょう。多田の場合は絵画のフォームを担保しながら実直なままに実践を繰り返し、絵画の本質に迫る挑戦を続けているように見えます。その答えを掴み始めた今だからこそ描ける清冽な絵を、本展では世に送り出していきたいと考えます。